降り来るもの2:食道メリーゴーラウンド

ずいぶん時間が空いてしまったが,先日の本題である。最初に前回の要約を試みると,

  • 「胸膜腔と胸膜腔の間」の部分を縦隔と呼ぶ。通常心臓とその外側を中縦隔として,それより前を前縦隔,それより後ろを後縦隔と分類している。
  • 心臓は最初頭の「上」に発生し,胸部に下降する。したがって,
    1. 心臓が降りてくる前から胸部にいたもの⇒後縦隔
    2. 心臓および心臓と一緒に胸部に来たもの⇒中縦隔
    3. 心臓が降りてきた後に胸部に来たもの⇒前縦隔
  • ゆえに,食道に分布する神経は,交感神経も迷走神経も後縦隔を通る。

だがそもそもの本題はその先で

Q.左の迷走神経が食道の前面に分布し,右の迷走神経が後面に分布するのはなぜか?

ということなのだった。
実は,これに答えること自体はとても簡単で,

A. 食道が右に90度ねじれているから。

である。筒をどこかで右に90度ねじれば,そこより先では前のものは右に寄り,左のものが前に来る。
だが,「食道が右に90度ねじれている」と考えることで,迷走神経の走行をうまく説明できるとしても,それだけではあくまでもただの「仮説」である。言ってしまえば「そう考えれば辻褄が合う」というだけの話で,実際に発生過程で食道がねじれていくのを観察した人がいるわけでもない*1…と思う。そこからその他の構造を何ら理解できないのなら,覚えるコトが変わっただけで,その量は少しも減らない。それなら怪しげな仮説より解剖学的な「事実」を覚える方がはるかにマシだろう。これだけの話で終わってしまっては,医学生様も満足するまい*2
こうして外科学が局所にこだわるのに対して,解剖学は系統(統合)に進もうとする*3。今回なら「ねじれた先」すなわち腹部の構造を検証してみたくなるのが,解剖学の性というものだ。
そこで,食道に続く胃の位置を見てみよう。体のほぼ真ん中に噴門(入り口)があるのは,食道の続きだから当然として,幽門(出口)はどこにあるだろう。噴門の真下ではない。それは噴門の右下にあって,その先の十二指腸とともに後腹壁(壁側腹膜)に癒着している。つまり胃は右に「倒れ」ているコトになる。
これが食道の「ねじれ」と同じ現象だとしたら,幽門はもともと噴門より腹側にあったコトになる*4が,十二指腸の先の小腸はすべからく間膜を持つ(腹膜前臓器)のだから,それは納得できる*5ことだろう。
では,前後はどうか?それを確かめるには,胃の血管を見てみるとよい。大ざっぱに言って,胃は小彎・大彎に分布する,2つのループ状の動脈で支配されている。小彎則の動脈は小網(肝臓と胃の間の間膜)を通る。よって,肝臓や胃を動かさなくても,小彎の動脈を確認することが可能である。一方,大彎側の動脈は,胃の裏側を走行する脾動脈や胃十二指腸動脈の枝*6である。つまり,胃の大彎に分布する動脈は胃を「回り込んで」いて,それらがもともと胃の「裏側」の血管であったことを示している。
最後に一言。先ほど軽く「肝臓と胃の間の間膜」と書いたが,ここに間膜が存在するということは,胃の更に前に肝臓があったことを意味している。だとすれば,胃と一緒に肝臓も倒れたハズで,実際,肝臓は胃の右側に存在する*7。食道〜十二指腸のねじれは,網嚢をはじめとする肝臓およびその周囲の多くの構造にも関係しているだろうことは想像に難くないが,一回のテーマとしては長く複雑になりすぎる。今回は触れないが,解剖や発生を勉強されている方には,その観点からのまとめを是非オススメしたい。多くの知識が「忘れようがない」理解に変わること請け合いである。
Reference
解剖学講義ノート(系統解剖学篇 2006年度版) 寺島俊雄 著 より

  1. 第9章 血管系各論(動脈系)
  2. 第22章 腹膜の発生

*1:腸管が「曲がって」いけば管の形自体が変わるが,「ねじれ」るだけでは形は変わらない。その様を観察して証明するのはとても難しいことだ。

*2:といいつつ,これだけの内容を「詳細は?Dで」と返信してしまったのだが。

*3:だからと言って,解剖学が局所を軽んじているのでは全くない。全ての科学がそうであるように,系統解剖学や発生学でどれだけ広汎な構造を説明できたとしても,一つでも矛盾する局所構造があるなら,それはどこか間違っているのだ。

*4:でなければ,食道と同じように「ねじれ」しか起こらない。

*5:更に言えば,十二指腸空腸曲は体の正中やや左寄りである。

*6:大彎は前にあるのに!

*7:だが,十二指腸と違って,肝臓の間膜は壁側腹膜と癒着していない。今でも肝臓は前にあるのだ。

The other side of life

「謝」と言えば「あやまる」。「あやまる」と言えば「誤る」。

お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい

お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい

真っ先にこんな一冊を思い出す僕の人生は残念だけど何か
大切な所で道を間違えたようですね

ニホンゴムズカシイネ

id:namnchichi:20060614#p3 KU。
お父さんに贈りたい漢字、トップは「謝」…生保調査
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060614i311.htm

父親に贈りたいメッセージを込めた漢字1文字のトップは「謝」だった。
「育ててくれてありがとう」という感謝、「心配ばかりかけてごめんなさい」と謝る気持ちなど、込められた思いは様々ながら、子供たちはお父さんをしっかり認めているようだ。

二通りの解釈があるからこそのトップなのではないのかなぁ…ヽ(。_゜)ノヘッ?

「残りの人生を楽に過ごして」と「楽」(4位)

「楽しく」とか言えないかなぁ…っつか,楽させたいならお前がガンバレ。

家庭での存在感を強調する「感」(5位)

???…何かとっても違和感ありますから!

  • そうだ

Google先生に聞いてみよう!

  • 聞きました

存在感 の検索結果のうち 日本語のページ 約 9,570,000 件
違和感 の検索結果のうち 日本語のページ 約 17,300,000 件

違和感の圧勝ですから。残念!

降り来るもの1:縦隔ハートブレーク

医学生の読者様から,リクエストをいただいた。

この間外科の講義で、「迷走神経は左が中縦隔、右が後縦隔を走行する」と聞きました。
(中略)
どうして左右だった神経が前後になるのか教えてください。解剖は自信がないので、できれば簡単にお願いします。

とのことである。
まずはっきりしておきたいのだが,上記の記述は間違っている。それも外科医にあるまじきひでぇ間違いと断罪してはばからぬ。医学生様は「簡単に」とご希望なので申し訳ないが,断言した以上は,まずその根拠をしっかり述べさせていただきたいと思う。長くなってしまうけど我慢してください。



さて,そもそも縦隔というのがなかなか理解しにくいものであるので,まずはそこから説明していきたい…のだが,そのためにまず,以前腹膜について書いたものを読んでみて欲しい。「ハラ関係ないじゃん」と言われそうだが,大いに関係あるので。その要点を一行でまとめると,

  • 腹膜腔=腹腔-消化管-間膜

という式が成り立つと,そこでは書いた。同じように胸部の解剖も理解したいワケだが,そこまで神様は優しくない。残念ながら

  • 胸膜腔=胸腔-食道-間膜

ではないのだ。それというのも胸部には腹部にはナイ「縦隔」なんてものがあるからで,この式のどこが間違っているのか,どう直せばよいのかというのが,次の問題*1である。
そこでまずは大ざっぱに,胸腔と腹腔の臓器を比べてみよう。腹腔には基本的に消化器系しか存在しない*2のに対し,胸腔では肺があったり心臓があったりと,何だか複雑である。どうやらそこに鍵がありそうだと誘導して目をつけて,肺と心臓の発生を考えてみる。
最初に肺…というか,気道について。以前咽頭と喉頭の違いについて書いたときにも少し述べたが,消化器系と呼吸器系を分けるのは人間様の都合に過ぎないので,気道も肺もそもそもは食道の一部*3である。ということはつまり,消化管の周りが腹膜腔であるように,肺の周りが胸膜腔であるということ,言い換えれば

  • 胸膜腔=胸腔-(食道+肺)-間膜

ということだ。だが,心臓はどこへ行ってしまったのだろう!?
心臓は大動脈につながっているので,心臓は壁側胸膜の外にある,というかなければおかしい。胸の前の方に心臓があることは誰でも知っているが,(下行)大動脈は背中にある。全ては膜の外の出来事なのに,どうしてそんなことができるのだろう?
おそらくこう考えるしかないだろう。そう,大動脈弓は大動脈だけの弓ではなく,壁側膜ごとUターンしているのだと!こうして私たちの胸腔は,胸膜以外に心膜という,もう1枚の膜を持っている*4ことになる。
さて,長々と書いてきたが,ここらで一旦まとめよう。その位置の変化に注目すると,結局胸部臓器は

  1. もともとその位置にあったもの
  2. もともとの位置から胸腔内に広がったもの
  3. よそから来たもの

の3つに分類できそうである。2.すなわち肺であるが,1.と3.が存在する場所,つまり「胸膜腔と胸膜腔の間」の部分を縦隔と呼ぶ*5。通常心臓とその外側を中縦隔として,それより前を前縦隔,それより後ろを後縦隔と分類しているが,心臓は胸に降りて来るのだから,1.は当然後縦隔に位置する*6ことになる。食道に分布する神経が走行する場所は,交感神経であれ迷走神経であれ,後縦隔しかあり得ないのである!
最後に例によって例のごとく,医師国家試験問題を引き合いに出しておく。

97G29
正しいのはどれか。

  1. 左肺は3葉,右肺は2葉である。
  2. 気管は心臓の前方にある。
  3. 食道は気管の前方にある。
  4. 右肺動脈は上行大動脈の後方にある。
  5. 横隔神経は心膜の内側にある。

医学生様から「迷走神経関係ないじゃん!」という憤慨の声が聞こえてきそうである*7が,解説はこちらを参考にして欲しい。正解(4.)を選ぶこと自体は決して難しくないと思うが,問題は間違い選択肢の方である。特に5.に自信を持って×を付けられる人はそう多くないと思われるが,もう大丈夫ですよね?心膜が心臓と運命を共にした心臓だけの膜であることを考えれば,心膜の内側にある神経は心臓に分布する神経しかあり得ないことが理解できるだろう。もちろん,横隔神経は横隔膜の神経で,心臓の神経ではない。

*1:どんどん話がそれていますが,ちゃんと着地…するハズです。

*2:脾臓なんてのもあるけど。

*3:「食道は漿膜に包まれない」という国試頻出問題があるが,「接しているものは包みようがない」ので,それを言うなら気管だって包まれてはいない。あえて特別なことと言えば,せいぜい食道は背中に張り付いていて間膜を持たない(前だけでなく後ろも包まれない)ということくらいだろうか。

*4:厳密に言うと,これは2つの意味で間違っている。大動脈弓(Uターン)は,心臓が頭の先から胸の中へ下降してできた「結果」の産物である。ということは心臓は「もともと」前にあったので,その時期には心臓も間膜を持っていた。だから心膜にも臓側膜と壁側膜,そして心膜腔が存在する。また,壁側心膜の外側には,もう1枚二次的に作られる膜がある。これを線維性心膜といい,本来の心膜を漿液性心膜と呼んで区別する。だから正確には,心臓は3枚の膜で包まれている。

*5:もう一度腹部と比較してみることで,その意味はより明白になるだろう。要は腹部における腹膜腔「以外の」部分が,胸部における縦隔(と肺)ということだ。

*6:「よそから来た」臓器,つまり前・中縦隔の臓器には,心臓の他に胸腺や横隔膜がある。

*7:迷走神経の前後の話も必ずします。まずは縦隔の理解からということで勘弁してください。m(__)m

ご報告(私信をかねて)

前々回の「かなしーおもちゃ」について。
引用させていただいたぷーさん先生の記事は引用後に推敲されており,現在該当箇所は存在しません。ぷーさん先生のお心遣いに感謝を申し述べるとともに,心苦しい思いをおかけしてしまったことには,お詫びの気持ちをお伝えしたいと思います。
この場合引用も更新ないし削除するのが筋かも知れませんが,本文中にも述べたように,引用は貴重なご指摘と考えてのものであり,なんら批判的な意図をもったものではありません。また,引用を変更ないし削除してしまうと,本文の意味するところも不明確なものとなってしまいます。そこで私としてはできれば,このまま原文での引用を続けさせていただきたく存じます。
もとよりぷーさん先生の意には反するものと思いますので,無理は申せないものと考えておりますが,是非ともご理解とご寛容を賜りたく,心よりお願い申し上げます。m(__)m

頚の骨の数とか

id:namnchichi:20060608#p3

頚の骨は、7つでしたっけ。
まぁ、頚の骨が五つ?って云うのはそんなに悪くない。結構良いセン行ってると思う。そりゃ、正しく言えた方が良いんだろうけど、百個?っていうより大分近いし、一個ですか?とか、クビんとこに骨なんてありましたか?よりかなり増しじゃありませんか。腰の骨の数と混同したんじゃないかな。腰は五つでしたよね。
びっくりするような事じゃないと思うね。
しょうごし先生、どうですか?

びっくりするような事じゃないとnamnchichiさんが言うけれど,二通りの考え方があると思う。一つは
「頚の骨が7つであることを知らない学生」がいたらびっくりするか?
というコトそしてもう一つは
「頚の骨が5つであるヒト」がいたらびっくりするか?
というコト。
前者については,まぁ一応びっくりするようなことではあると思うが,宜なるかなという気もする。元コメントには「4年生になっても」とあるが,むしろ「4年生になったから」なのだろう。それで解剖学の単位が取得できるとは思えない*1。後に残らないような解剖学教育やその学習にも非があるのだろうが,人間使わないことは忘れるモノだ。僭越ながら,カリキュラム上解剖学を学んでから4年生になるまでの間に,すっぽり「頚の骨が7つであるという知識を使わない期間」が存在しているだろうコトを指摘しておきたい。
さて,私自身の興味はむしろ後者である。結論から言えば,「びっくりはするがありえなくもない」と考える。
頚椎が7つなのは哺乳類に特徴的な現象である。それだけよく保存された構造なので*2,確かに胸椎や腰椎に比べれば,その数の変異はかなり稀*3である。
稀ではあるがその数が少なくなるとするとすれば,その原因は大きく2つが考えられるだろう。

  1. 本来頚椎になるはずの骨が頭蓋骨や胸椎になった
  2. 本来2つだったはずの頚椎がくっついて1つになった*4

まず1.について考えてみよう。頚椎(の1番目)が頭蓋骨になる(くっつく)モノを「環椎癒合」といい,胸椎になるモノを「頚肋」*5という。出現率としては前者がおおよそ1%前後,後者は2%程度といわれている。この両者を合併した例の報告はないと思うが,単純に考えて5000人に1人位*6は頚椎が5つのヒトもあってよい*7ことになる。
2.の場合も本質的には環椎癒合と変らない*8。だからあってもいいように思うが,頚部がかなり可動性のある領域だからだろうか,実際にはかなり珍しい。環椎と軸椎(2番目)が癒合してしまえば文字通り「頚が回らない」*9のでこれはおそらく存在しないだろう。軸椎と第3頚椎の癒合は比較的多いらしく,1-3%程度と報告されている。第3頚椎と第4頚椎の癒合した例も存在するらしい。とすれば,第2-4頚椎が一つになることも絶対にないとは言えないのかも知れないが,おそらく「ノーはできるがイエスができない」ヒトになってしまうだろう。ちょっと普通には見られそうもない。
最後に,少し発生学的にも考えてみよう。背骨はもちろん体節から作られる,体節はもともと板状だった胚子がくびれることで作られていくが,物の本によればヒトの体節は最高(第5週末)で42-44分節にまで達する*10という。ヒトの椎骨は31個ということになっているので,椎骨(と頭蓋骨の一部)ではどこかで体節が癒合しているハズである。どこで?
その答えは,実に「全部」である。肋間神経が肋間を走ることからも脊髄神経が体節の神経だということは容易に想像できるが,脊髄神経は椎骨と椎骨の*11から出る。ということはつまり,椎骨は全て上下2つの体節が半分ずつ癒合してできていると考えざるを得ない。ホネ特に背骨というと何となく厳格にできているように思うが,でき方はちっとも厳格でない。むしろ周りに遠慮しつつ何とか辻褄を合わせようとする,健気な調整者をイメージさせる。背骨はきっと,日本人に違いない。

*1:取得できたらできるような教育を行っている大学と担当講座に心底驚く,というか憤慨する。

*2:ある動物化石の頚椎が7つであったとすれば,その化石が哺乳類ないしその直系の祖先であることの有力な証拠となる。

*3:腰椎が仙椎(骨盤)に癒合して4つのヒトは,普通に存在する。というか,私がそうである。

*4:この他に「作られるはずの頚椎が作られなかった」ということも考えられるが,これは骨だけの問題では済まない。詳細は後述。

*5:と言うためには,本当は頚椎と胸椎をどう区別するかという「定義」の問題を考えなければならない,実際,通常頚肋は「第7頚椎が肋骨を持ったもの」と説明される。片方しか肋骨がない場合もある。

*6:どちらかがあるともう一つにもなりやすい(にくい)という相関はないものとして。

*7:こういうことを考えてしまうから,選択式の問題を作るのはキライだ。

*8:端っこか真ん中かという違いに過ぎない。

*9:軸椎の軸(歯突起)は環椎の回転軸になっている。

*10:体節から椎骨が作られる以上,それ以上の椎骨を作ることはできない。上限があるという点で「百個?っていうより大分近い」という意見に賛成である。

*11:これを椎間孔といい,頚椎を見せて横突孔と引っかけさせるのが骨学試験の定番の一つである。これから試験を受ける方は注意されたい。

かなしーおもちゃ

断っておくが,批判したいのではないただ,悲しいのである。
医学教育でのひとりごと 解剖実習中でも態度が改善しない一部の怠惰な医学生
http://nakaikeiji.livedoor.biz/archives/50585752.html
ここに書かれているような学生の存在は,悲しい。悲しいが,それは自分も日々経験しているコトだ。だから,悲しんではいられない。それよりももっと,この一節が私を悲しませる。

解剖学そのものは、基本的に興味を持ちにくい学問です。大量の、脈略のない単語を、それこそ、丸呑みするかのごとく記憶する感じです。もちろん、ある程度の工夫をすれば、興味深く、各知識を関係付けながら理解していくという楽しみもある程度はありますが、それは、ごく一部であり、どうしても、丸暗記しかない大量の知識です。いつ、その知識が必要になるかはわからないけれど、医学を学ぶ最初の段階で頭に入れておくと、生理学、病理学、内科学、外科学と、医学学習を深め、対象を広めていく過程で、必ず必要になる知識なのです。

もう一度言うけれど,批判したいのではない。ぷーさん先生は「必ず必要になる知識」としての解剖学を,こんなにも重要だと思って下さっているのだ。その実習に真摯に取り組まない学生の存在を,真剣に憂いて下さっているのだ。それはとてもありがたく,励まされることだ。
だけど,そんな教育者にとってもなお,解剖学は「基本的に興味を持ちにくい」もので,「大量の、脈略のない単語を、それこそ、丸呑みするかのごとく記憶する」ものだという。「どうしても、丸暗記しかない大量の知識」なのだという。要は,「 解剖学はイヤなものだ」ということが,前提にされているのだ。こんなにも真面目で熱心な,医学教育を専門とされている先生にも,だ。
そのことが,私を悲しませる。
思い返せばかつて医学生であった私にとっても,解剖学はこの上なく苦痛な代物だった。できればこんなモノには二度と触れまいと思っていたし,触れずに済むだろうと思っていた*1。だから,そういうモノとして解剖学をとらえている医師が多いことは知っているし,理解もできる。
だけど,私は今,その解剖学をやっている。イヤなことを避けたいのは,今も昔も変らない。ただ,やっている以上は,「イヤなものだ」とは思いたくないし,思っていない。今,私にとって解剖学は面白いもので,だからこそ続けられるのだ。そして,私は信じている。解剖学は誰にでもとは言わないまでも多くの人にも面白いと感じられるモノに違いないと。だからこそ,かつてあれほどイヤだった解剖学を学生に「押し付ける」ことにも堪えられるのだ。
そうして,こんなコトも思うのだ。必要だろうが何だろうが,そもそもイヤイヤやったコトなんて,大して後に残りはしないだろうと。そんなことは,私が発見したことでも何でもなく,2千年も前から知られていたことだ。孔子だって言っているのだ。

これを知る者はこれを好む者に如かず。 これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆し。

ドイツ語が嫌いだった。生化学が大嫌いだった。神経内科学が超嫌いだった。そして,私は疑問だった。こんなにもつまらんドイツ語を,何であんなにもニコニコ講義できるんだろうかと。臨床を学ぶには生化学が必要らしいけど,臨床をやっていない教授に何でそれが分かるんだろうかと。神経診断はどの科に行ってもやるらしいけど,だったらなんで神経診断の専門家がいるんだろうかと。
今の私なら,その答えは分かる。分かるけど,当時の私と話をしたとしても,彼にそれらを勉強させることは,とてもできそうもない。なぜ勉強しなかったのかと言えば,要するに面白くなかったからで,必要性を感じなかったからではない*2からだ。とても悔やまれることだ。だけど,悔やむのは勉強しなかったことではない。今からだって,勉強したければすればいいのだ。本当に残念なのは,その面白さに気づくことができなかったことだ。そして,やってみなければ面白いもつまらないもない*3というたったそれだけのことに,あれだけ学生をやって思い至らなかったことだ。
当時の私に,「解剖学は必要だ」とは言いたくない。言えば喧嘩になるのは目に見えている。だから代わりに,こう言ってやりたいと思う。「必要だ必要だって言うけど,解剖だって生化だって,本音はみんな楽しいからやってるんだよ」と。そう言っても喧嘩にならないだけで,彼にはとてもそうは思えないだろう*4。でも彼は少しだけ,嫌いな科目にも面白い所を探そうとするだろう。そうしてドイツ語も生化学も神経内科学も,少しはマシになるだろう。それが学ぶ能力なのだと,私は思う。当時の私はいないけど,そんな医学生なら今でも石を投げれば当たる*5。だから,代わりにこう願う。時にはヒトの体より重く感じられるメスやピンセットだけど,「何でヤツはあんな楽しそうに解剖やるんだろう」と不思議がられたい。放り投げたいほど分厚く難しい教科書だけど,「何でヤツはあんな嬉しそうに解剖学を話すんだろう」と怪しまれたい。そして,それが自分の本当の姿でありたいと,あり続けられるようにと,私は願う。だから今日も,私は解剖し,勉強し,ブログを書いている。

*1:揚げ句留年し,触れざるを得なくなってしまったのだが。

*2:確かに今ほどは感じていなかったかも知れないけれど。

*3:どんな面白いことだって,「試験勉強」のつまらなさ苦しさには勝てっこない!

*4:先生方がその「教育」が好きだったかは,正直疑問だ。

*5:「投げなきゃ当たらない」というのは,当たり前のようで深い教育学的真理だ。