1 Corinthians 13

  • 思うところあって

昔ホテルでギッてきた聖書など読んでみる。お断りしておくが,別に私はキリスト教徒でもなんでもない*1コーランは置いてあるのを見たことがないが,仏教書だってちゃんと家にある。さて,タイトルの部分は
愛は寛容にして慈悲あり 愛はねたまず
愛は誇らず 高ぶらず非礼を行わず
おのれの利を求めず 憤らず 人の悪を思わず
不義を喜ばずして まことの喜ぶところを喜び
おおよそ事忍び おおよそ事信じ
おおよそ事望み おおよそ事耐うるなり

という,結婚式で有名なアレだ。ここで言っているのは男女の愛じゃなくて神の愛のことだと思うけど,神様に愛されている二人なんだから,神様に愛されているように互いを愛しなさいってコトなんだろうな。そうでも思わないと,人間ちっちゃい私としては,ため息をつくしかない。でも逆に言えば神様に愛されていると思うことで,こういう愛し方ができるというのが,パウロが言わんとするところなのかもしれない。そう考えると,キリスト教ってちょっと大乗仏教っぽいところもある。ちなみに聖書訳にはいろいろあるそうだけど,HPで調べてみると,大抵は
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず,高ぶらない。礼を失せず,自分の利益を求めず,いらだたず,恨みを抱かない。不義を喜ばず,真実を喜ぶ。すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてに耐える。
となっている。わかりやすいのはいいんだけど,なんかありがたくないな。結婚式で聞いても,あんま感動しなさそう。私にとっては教典でもなんでもなく,いわば名言集みたいなもんだから,それでいいのかもしれないけど。

  • ついでに

続きを読んでみる。途中をチョット端折ると,
預言は廃れ,異言はやみ,知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分,預言も一部分だから。完全なものが来たときには,部分的なものは廃れよう。幼子だったとき,わたしは幼子のように話し,幼子のように思い,幼子のように考えていた。成人した今,幼子のことを棄てた。
…う〜ん。/(_ _)\
「ありのままに見る」が信条の解剖学者としては,実に耳が痛いお言葉である。見たものに理屈をつけて,「なぜ」そんな形になっているのか納得しようというのが解剖学なんだけど,確かにその結果できたアトラスの図は,実際に存在したどんなご遺体とも多分違っている。そう言えばニュートンは晩年
私は浜辺で遊ぶ少年のようなものだ。私は美しい貝殻を見つけては喜んでいる。しかし,真理の大海原は,すべて未発見のまま私の前に横たわっている。
みたいな事を言っている*2。科学の本質を突いた発言だと思うのだけど,これもこういうキリスト教的な価値観が背景にあるのだと思うと,また別の感慨がある。

*1:そもそも本当のキリスト教徒は聖書ギッたりしないよね,絶対。

*2:うろ覚えなので,信用 and/or 引用しないでください。