病めるときも貧しきときも

拝啓 花粉症には花見も辛い今日この頃,ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
さて,先日は近況報告のメール,ありがとうございました。予想されたこととは言え,お二人のご成婚には驚きと喜び,隠し難いものがございます。
ご婚約の折りには,披露宴には是非ギターを持参せねば,イヤそれ以前に呼んでもらえなかったらどうしようなどと,ちっちゃなことを考えておりましたが,挙式はされないということですので,この場を借りてご挨拶させていただきます。
さて,結婚式をされないお二人にこういう話は何ですが,小生どういうわけか,今まで出席した結婚式は全て教会式でありました。宗教とは縁のない私でも,何だかその時だけは「神様っているよね」なんて気分にさせられるものです。で,「神の下での平等」なんてものを,少しだけ信じてしまいたくなるのです。
でも,皮肉屋な私はこうも思うのです。「目の前の二人とオイラと,どこが平等なんだ」と。思うに「平等」なんてものは本当はどこにもなく,あるのは「公平」だけなのです。幸せを掴む能力というものはやっぱりあって,ゲットする人はゲットするし,できない人はできないだけのことなのです。
そんなみみっちいことを考えているうちにも式は佳境を迎え,壇上の「勝ち組」に,神父様なり牧師様なりは,おもむろに問うのです。
「病めるときも健やかなるときも,富めるときも貧しきときも」と。
そこでまたぶち切れですよ,とゴノレゴな気分になってみたりするのです。そんなだから,裏で親ともめていようが借金があろうが,お腹の子供を巡って一悶着あろうが,大抵新郎新婦は「幸せです」とか「幸せになります」とか言うのです。言わなきゃならないのです。それでも幸せでないと,誓いはいきなり破綻するのです。
とまぁ毎回さんざん落ちるところまで落ちたところで,「こんなんじゃダメよね」とやっと気づくのです。そうして「ちゃんと祝福しなきゃ」と自分を叱咤し,自分がここにいる理由なんて,改めて考えてみるのです。
思うに,職場の付き合いとか出会いのチャンスとかきっかけは様々であれ,新郎新婦も含めて,みんな幸せになりたくて結婚式に集うのです。だから結婚式の幸せは,新郎新婦にのみあるのではなく,それを見る者全てにあるのです。
「ま,今はどうあれ,結婚できたんだから幸せということでいいよね」とか,
「ま,今はどうあれ,結婚できれば幸せということでいいよね」と,
様々な思いが交錯する帰りの電車にあるのです。そんな気持ちになりたくて,みんな電車に乗り込むのです。結婚式がそうであるなら,そして真の結婚がそれからの生活であるのなら,この世に一組の夫婦があることの幸せは,実に夫婦のみにあるのではなく,それを見る者にこそあるのでしょう。
「幸せになって下さい」なんて野暮なことは申しません。他ならぬお二人のことです。幸せだから結婚を決められたのに決まってます。でも,誰よりもお互いを,そしてお二人の周りのたくさんの人たちを,もっとずっと幸せにして下さい。お二人にはそれが可能であると,そして,その結びつきが更にそれをたやすくするだろうことを,心より確信しております。
今までさんざん先輩面をさせていただいて参りましたが,もはやお二人は我が人生の「先輩」であります。小生ますます後がありませんが,今後とも変わらぬご指導ご鞭撻をお願いし,「私にも幸せを」と更に篤くお願いしてお祝いの言葉に代えさせていただきます。 敬具