喉元過ぎればエラを忘れる?

最初にお断りしておく。今回は以前取り上げた2つのはてな質問の「心臓の神経」について考察する。いつも自分なりに「少しでもわかりやすく」と心がけているが,今回だけは解剖・発生の知識(用語)とそれなりの成書(教科書),とりわけその図がなければ,全くご理解いただけないと思う。自己満足といわれるかもしれないが,自分の勉強のためのメモということでお許しいただきたい。逆にそれらをお持ちの方は,騙されたと思ってお付き合いいただきたい。主張への賛否はともかく,きっと面白いと感じていただけるものと確信している。

心臓の神経についての質問です。心臓には交感神経と副交感神経という2種類の神経がつながっていますが、これらの神経は、それぞれ心臓のどこにどのように連結しているのでしょうか?

心臓には交感神経と副交感神経が分布する。教科書的には交感神経は上・中・下の頚神経節からの心臓神経と胸心臓神経であり,副交感神経は頚部迷走神経からの上心臓枝と反回神経からの下心臓枝である。
これで済ませてしまっても試験は通るだろう。しかしここで

  1. 交感神経と迷走神経は本来全く違った経路を通る神経であり,その由来も異なる
  2. 心臓はそれらの神経と全く「場違い」に発生する

ことを意識すると,話は一気に難しく,それでいて俄然面白くなる。
まず神経について考えてみよう。まず交感神経から。解剖実習をすると必ず驚くことの一つだが,交感神経幹は脊椎の両端にほとんど張り付くように存在している*1。腸管は体の真ん中だから,交感神経は「背中から体の真ん中に向かう神経」と言えるだろう。
では迷走神経はどうか?迷走神経は本来腸管の神経ではない。それはエラの神経である。エラは水を介して呼吸を行う器官だが,入った水は出ていかねばならない。だから,エラの溝は咽頭から体表に開口している*2。要するに魚は水を飲んでエラから吐くのだ。鰓溝の両端が鰓弓であって,迷走神経は鰓弓神経の最終枝*3である。つまり迷走神経の本分はノドではなく,エラの下端を開け閉めする*4ことにある。エラがノドに通じているからノドも支配するのだし,ノドが腸に通じているから「ついでに」はらわたも支配しているに過ぎない*5
陸に上がった脊椎動物には当然このような交通は存在しない*6が,鰓弓は体の表面にある。迷走神経の本分はあくまでも「頭から首の横に向かう神経」なのだ。
ここで,我々は交感神経と迷走神経の本質的な違いに気づく訳である。つまり,

交感神経は体の中心に向かう内臓の神経
迷走神経は体の側面に向かうノドの神経

なのだ。
神経の走行についてパラダイムを変えてみたところで,心臓について考えてみよう。そもそも,心臓はどこにあるのだろうか?
心臓の手術では通常胸骨を正中切開して開胸する。胸骨を開ければすぐに心臓*7を見ることができる。つまり,心臓は胸の正中前面にある。しかし,心臓が最初に発生する場所はそこではない。口咽頭膜の前方,神経管の最先端の更に先に心臓の原基はできる。つまり,心臓は頭の「上」に発生するのである!
頭の先にあった口(咽頭膜)と心臓は,胚子頭部の屈曲に伴って,頭の前下方に折れかえる*8。こうして我々は一つ口裂け女から遠ざかれるし,心臓を胸に納めることができる*9。いずれにせよ,心臓はだから,単に「前」にあるのではない。「口と同じ」くらい,あるいはそれ以上前にあるのである。
こう考えてみると,心臓に直接枝を伸ばすことが,神経にとっていかに難しいことか理解できる。交感神経幹の側にいるのは背骨だし,迷走神経の側にいるのは喉頭である。ここから心臓まで神経を送ろうとするなら,その場の血管と同じレールに乗るより他に道はない。これが動脈門であり静脈門(心膜が折れかえる部分)である*10
改めて冒頭の解剖を挙げる。

  1. 心臓には交感神経と副交感神経が分布する。
  2. 交感神経は上・中・下の頚神経節からの心臓神経と胸心臓神経
  3. 副交感神経は頚部迷走神経からの上心臓枝と反回神経からの下心臓枝

「頚の」交感神経と「頚の」迷走神経,そして「鰓弓」動脈を「反回」する神経である。何と驚くべき「必然」ではないか?
Reference
心臓を手に生まれてきた赤ちゃん | Excite エキサイト : ニュース

*1:脊椎に近いということは脊髄に近いということである。当たり前だが,中枢神経系に近いということは,末梢から遠いということだ。したがって,1つの交感神経節が支配する末梢の領域は副交感神経のそれに比べて通常広くなる。

*2:魚類のエラは鰓溝ではなく鰓孔である。

*3:ヒトでは4つの鰓弓(咽頭弓)にそれぞれV,VII,IX,X脳神経が伸びる。VII,IX,Xはまた,「副交感線維を含む」脳神経でもある。ここから示唆されるように,エラとノドは発生のみならず,解剖学的にもつながっている。実際,Vは咀嚼筋や舌知覚の,VIIとIXは味覚や唾液分泌の,Xは言うまでもなく消化管の支配神経である。

*4:閉められないと食べ物もエラから出ちゃうからね。

*5:だから,迷走神経はあくまでも腸管の上部を支配するので,全体を支配するのではない。実際,排便(内肛門括約筋)や排尿(尿道括約筋)は仙骨神経叢が支配している。やや古めかしい表現だが,交感神経系を胸腰系,副交感神経系を頭仙系と呼ぶこともある。

*6:交通していないだけで,必ずしもアナそのものがなくなるわけではない。外耳道が鰓溝の遺残であることは分かりやすいが,咽頭溝も中耳道や耳管咽頭口,あるいは梨状陥凹として,ヒトでも変わらず存在し続けている。トンネルや飛行機の中で,私たちは原始の「咀嚼」をしているのである!

*7:厳密に言えば線維性心膜に包まれた心嚢。

*8:鰓弓の発生する位置は背側大動脈と心臓原基の間に当るから,その動脈もこの時Uターンすることになる。これが将来の大動脈弓である。反回神経は本来反回していない。立体交差している血管が反回するから,神経も反回しているように見えるのだ。

*9:結局,心臓は胸に「割り込んで」入ってくるので,もともと胸の臓器ではない。したがって,(肺を虚脱できれば)心臓を露出させるのに臓側(肺)胸膜はもちろん,壁側胸膜すら破る必要はない。肺が心臓の前に張り出そうとあくまで胸膜腔は心臓の両脇であり,心臓の前ではありえない。

*10:前後関係だけで考えれば,交感神経は動脈門,迷走神経は静脈門を通りそうなものだが,残念ながら話はそれ程単純ではない。動脈であれ静脈であれ「全ての血管は心臓に通ず」るから,「遠回り」を厭わなければ,どちらからでもいずれ神経は心臓に到着できるのだ。実際,神経は必ずしも「最短コース」を通ってはいない。それどころか,その経路に規則性があるのかないのかすら,結論は未だに出ていない。今なおホットな,肉眼解剖学の課題の一つである。