口ほどにモノを噛む耳

先日の脚注に「トンネルや飛行機の中で,私たちは原始の「咀嚼」をしている」と書いた。しかし,これはあまりに唐突すぎたので,説明を加えたい。だが,そのためにはまず,どうしても顎の系統発生について触れておかなければならない。
私たちの頭頚部の構造の多くは咽頭*1から形成されるが,これはエラを持つ魚類でも例外ではない。脊椎動物アゴを持ったことは,それこそ陸に上がったのにも匹敵するターニングポイントであったが,何度も考察したように,構造は基本的に全くの無から生まれはしない。
ではアゴはどこからできたのか?口を閉じることのできない無顎類にも閉じることができたものは?そう,そこにはエラがあったし,逆に言えばエラしかなかった。左右の鰓弓を真ん中に引き寄せて口腔を包んでやれば,鰓アナを閉じる要領で口を閉じることができるだろう。もちろん,このとき鰓弓の中の骨(鰓性骨)も正中でつなげてやる。これが我々に至るまで変わらない*2アゴの基本的なデザインである。
この設計は非常に上手く機能した。ところが以前記したように,哺乳類に至ってこのデザインは,またしても大幅な改変が行われる*3ことになる。
なぜそんな大工事が行われたのかは分からない。おそらく本当は理由なんかないのだろう。だが,ともかくもそうやって作り替えられた数々の構造は,後から見れば狙ってやったとしか思えないほど巧み*4なもので,機能的にも形態的にも,哺乳類を基本的に特徴づけることとなった。その工事内容は…という前にまず,耳とりわけ中耳の系統発生を語らねばならない*5
外耳・中耳は第1鰓孔*6が変化したものである。陸上に上がって鰓孔は閉鎖されることになったが,この時第1鰓孔を閉じたのが,今の鼓膜であり,こうして鰓孔は外耳と中耳に分けられることになった*7。孔の前の骨(第1鰓性骨)は既に顎骨となっていたわけだが,後ろの骨(第2鰓性骨)はこの際に耳小骨,具体的にはアブミ骨*8となって,鼓膜に張り付く*9ことになった。
だが,ヒトの解剖を学んだ方であれば,ここで「おかしい」と思われるだろう*10

「鼓膜と張り付いているのはツチ骨じゃなかったっけ?」

その通り。だが,それは「哺乳類では」であって,実はツチ骨・キヌタ骨は哺乳類にしか存在しない*11。だから,我々はここで,改めてそれらの起源を探らねばならない。
ツチ骨・キヌタ骨は中耳の中で関節を作り,アブミ骨とつながっている。第1咽頭溝の表面の膜とつながる骨と,第2鰓性骨と関節する骨,さらにはそれらの関節。そんなパーツが一体どこにあるだろう?やっぱりそこにはエラがあったし,逆に言えばエラしかなかった。たとえそれが今やアゴと呼ばれるものであっても,だ。

アゴの骨が耳のアナに潜り込んだもの。それがツチ骨であり,キヌタ骨である。

こうして,確かに哺乳類の「聞こえ」は以前とは比べものにならないほどよくなった。だが,それによって失われるものもまた,あまりにも大きい。今や,我々の顎関節は中耳に埋まってしまった。我々は再びヤツメウナギに戻るかどうかの,危機的な瀬戸際にある。しかし,進化の歴史はここから*12大逆転を果たす。我々は今でもアゴを持っている。そのアゴはもとのアゴとは似て非なるモノなのだが,まがい物であるはずのそれから得られたものは,とんでもなく大きなものだった。だが,質的にも量的にも,あまりにも長くなりすぎた。「原始の咀嚼」にも未だ迫れていないが,ここで一旦小休止としたい。

*1:先日も少し触れたが,ヒトにはエラがないので鰓弓と呼ばず咽頭弓と呼ぶ方が普通である。以下同様に,そこから形成される構造も鰓弓器官ではなく,鰓性器官と呼ぶことにする。

*2:確かに変わっていない証拠として,咀嚼筋の支配神経が挙げられる。咀嚼筋は下顎神経(V3)に支配される。前回脚注で書いたように,三叉神経(V)は第一鰓弓の支配神経である。つまりは下エラを動かす筋肉が,魚とその子孫では下顎を動かす筋肉になったのだ。

*3:だから,私たちの咀嚼は原始の咀嚼ではない。

*4:むしろ考えてやろうという方が難しいかもしれない。

*5:書いている自分自身,いい加減回りくどく感じている。確かに咀嚼についてだけ考えるなら省略できる部分も少しはあるのだが,どうしてもここは一つ我慢して欲しい。その回りくどいことを,我々の先祖は事実やってきたのだし,他にどんな効率的な道があろうとも,彼らの歩んだ道はその道しかなかったのだから。

*6:第1鰓弓と第2弓の間

*7:エラは横にあり,口は前にあるわけだから,耳の穴は斜め前に向かうことになる。聴診器を付ける際には,イアーピースを少し傾けて,後ろからに入れなければならない。

*8:その他,茎状突起と舌骨も第2鰓性骨に由来する。茎状突起と舌骨は本来エラの横で関節を作っていたわけで,茎突舌骨筋や顎二腹筋のあの独特な走行は,そのプリミティブな姿を今に伝えている。

*9:どの教科書にも必ず記載されることだが,アブミ骨筋は顔面神経(VII)が支配している。アブミ骨筋もその神経も,私自身も見たことがないほど些細なモノ(のハズ)である。にも関わらず,それらが一見不自然なほど特筆されるのは,こうして長々と記しているその発生学的な意味と,顔面神経麻痺の症状としての聴覚過敏という臨床的な重要性による。

*10:解剖学の試験を控えている方なら是非!

*11:乳腺や子宮は通常化石にならないから,これらの存在は化石が哺乳類のものであることの,決定的な証拠となる。言い換えれば,哺乳類を哺乳類たらしめているのは胸でも会陰でもなく,耳であり顎である。

*12:かどうかは,本当は分からない。変化の順序を示す証拠はあまりにも少なく,私たちは結果は知っていても,そのプロセスとなると,ほとんど何も知らないのだ。だが,GouldとEldrichの「進化の断続平衡説」をパクれば,こんな考え方もできるだろう。ひょっとしたら,プロセスなんてもともとなく,全ての変化は一度に起ったのかもしれない!