骨と皮ばかりの歯とウロコ

気がつけばお歳暮の季節,最近拙宅にも「ネタ」を頂戴するようになった。ありがたいことではあるが,あのスミルノフ教授アゴが大変なことになっているらしいと聞いては平常心ではいられまい。
俺の身に起きている発生学的問題(id:sueme:20051204#p2)

俺の上顎は普通の人よりも小さいらしく、歯が所狭しと並んでいた。特に左の前歯はスペースが無い故に左上2番と3番が重なっていたのである。したがって、右上1番の位置に左上1番を、左上1番の位置に左上2番を持ってくれば、なんとなく帳尻が合ってしまうのであった。問題の右上1番はすぐには抜かず、これも矯正の力で1年近くかけて抜いた。そうすることでそこに歯槽骨が再生されるという。再生されたところに左上1番がやって来るという作戦である。
左上1番は、今、俺の上顎の正中に位置している。正中の骨癒合部は頑丈なので、ここを越えるには少しばかり時間がかかるだろう。この骨癒合部、思えば胎生期に左右から別々に発生成長してきた外胚葉が再び巡り合った名残である。すなわち、俺の右側の歯槽骨は、今、左からやってくる歯を受け入れようとしているわけだが、これは、右と左の外胚葉系の組織の融合という、俺という生物の歴史上では胎生期以来の一大イベントなのだ。そのようなわけで、感慨に耽っているしだいである(後略)

教授はおかしな点があれば教えよと仰られるが,教授に意見するというのは大学人が最も忌避せねばならぬコトの一つである。また,それでなくても私の歯の解剖や発生についての知識は,平均的歯科医のそれを大きく下回っている*1に違いない。
私とて恐れを知らぬ人間ではない。遠慮なく指摘させていただくことにする。(^_^;)
さて,今一つ手技が理解できていないのだが,左第1切歯を「抜いて差し直す」のではなく「歯槽の境界を消失させた上で歯根の位置をずらす」のだと理解して話を進める。このような処置を「右と左の外胚葉系の組織の癒合」と言うかどうかであるが,残念ながら「癒合」という表現には違和感が残る。なぜなら,発生学的にみた歯は「分化した歯肉」であって,骨ではない*2からである。歯は顎の表皮が間葉に落ち込んで作られる。落ち込んだ表皮からエナメル芽細胞・象牙芽細胞が分化し,その周りの間葉(神経堤細胞)からセメント質が作られるのだが,いずれにせよこの時期顎骨はまだ形成されていない。つまりヒトの歯は,歯槽に歯がはまっているのではなく,歯の周りを歯槽が包んでいるのだ*3。そして最終的にできあがった歯は歯肉とつながらない*4ばかりか,歯根と骨をつなぐものも歯周靭帯しか存在しない。
神様がヒトをゼロから設計されたのならば,おそらくこんなデザインはされなかっただろう*5。では,何でこんなコトになってしまったのだろう?それはまさしく私たちが「歯が抜ける生き物の子孫」だからに他ならない。実際,哺乳類以外(の歯があるもの)では,多歯列の生涯生え替わる歯が通常である。生え替わる歯は抜けたって構わないし,むしろ抜けた方がよい*6
基本的に動物の歯は「抜けるようにできている」のだが,歯の系統発生を考える上で,サメの歯はその最も原始的な姿を私たちに教えてくれる。サメの歯は文字通り「口のウロコ」である。喩えで言っているのではない。サメの歯は皮膚(真皮)の盛り上がりから形成されるし,逆にサメのウロコは髄腔と象牙質とエナメル質でできている。外見的にも組織学的にも,サメの歯とウロコは全く同じ構造なのだ。咽頭後部で萌出した歯は次第に前面に移動し,約2週間で真皮から表皮に移動して抜け落ちる*7。移動するくらいだから,当然骨とは全く関節していない。硬骨魚類に至って歯は骨と靱帯でつながるが,その歯はサメと同じく顎のみならず,咽頭,鰓,更には舌にまで分布している。
知識が怪しいのでここで一気に話を哺乳類まで割愛する。哺乳類の下顎に大変化が起きたことは前回述べたとおりだが,実はこの時,歯にも大幅な変化が起こっている。歯に切歯・犬歯・臼歯の形の違いがあるのも,それらが歯槽骨に囲まれているのも,まぎれもない哺乳類の特徴の一つである。だが,いいことばかりではない。進化の代償として,私たちの歯は抜ければ二度と再生しない*8ものとなってしまった。
精密なものほどいざというとき修理が利かないのは,機械も生き物も変らない。歯が形態的に分化したからこそ,それは「かけ替えのない」抜けては困る歯になったのだし,おそらくだからこそ,簡単には抜けないように顎も変化したのだろう。だが,それはどちらが先というものでもない,容易に抜けないような歯だからこそ1本1本の歯を形態的に分化させる意味があるとも言えるだろう。そして何よりも,我々があえて上下の歯を「ずらして」噛むことができる顎関節を持っていることを,決して忘れる訳にはいかない。それが可能だからこそ,私たちは形態的に分化した歯を,機能的にも活用することができるのだから!
References

  1. 歯 - Wikipedia
  2. 吠えろ歯科技工士 歯科基礎知識
  3. サメの海 サメの生態

*1:そもそもここだけの話,私が突然アゴについて熱く語り始めたのも,仕事上の必要からそれを勉強し始めたからである。一番「へぇ」を連発しているのは,何を隠そうワタクシである。

*2:あくまでも「発生学的には」で,組織学的には象牙質・セメント質は通常骨組織に分類される。

*3:実際,歯が抜けると歯槽は消失してしまう。

*4:歯と歯肉の隙間が広がった状態が歯槽膿漏である。

*5:骨を伸ばして歯を作ることだってできたのだから。

*6:ヒトでも乳歯が抜けなければ立派な歯列異常である。

*7:ウロコだから,抜けるというよりは「剥がれる」といった方が適切かもしれない。

*8:よく知られているように齧歯類(ネズミやリスの仲間)の歯は一生伸び続けるが,伸びるのは歯の先だけである。抜いてしまえば歯は再生しない。