天秤に架けられるもの,あるいは架けてよいもの

以下はちりんのblog「解剖できない医学生」へのコメントです。



まず,参照された記事を紹介しておく。

「解剖実習で過敏症に」 元学生、大学に1億円請求

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040907-00000194-kyodo-soci
http://www.kahoku.co.jp/news/2004/09/2004090701002599.htm
正直,両大学にも元医学生にも思うところはある。しかし,ちりん氏もコメントで書かれたように,コレだけの情報で何かを判断することは,非常に困難であるし,するべきでない。ただ,確実に言えるだろうことは,

  1. 解剖実習は健康に悪いか?
  2. 解剖実習は医師になるのに必須か?

の2つは,分けて考えるべき問題だということである。

1. については,毎日新聞の記事

ホルマリン:
使用の解剖実習で健康被害−−文科省・大学調査*1

http://www.mainichi-msn.co.jp/search/html/news/2004/07/14/20040714ddm012040139000c.html
にあるように,残念ながら「悪い」と言わざるを得ない*2。肉眼解剖の研究・教育を生業とする身にあっては,全く人事でない(学生より教員の方が,よほど深刻だ!)。心より改善を望むし,実際改善できるところは多々あるし,そのためには税金だって使っていただきたいと思う。しかし,いずれにせよ限界はある。医療従事者の被爆は避けなければならないが,だからといって「被爆してはいけない」では何もできないのと同じ構図だ。

2. については,このダイアリーを開設したきっかけでもあり,いずれ本格的に議論したい。今回は簡単に留める。

これもちりん氏がコメントしたように,世界的には医学生は解剖実習をしない(させない)流れである。すなわち,「解剖実習は医師になるのに必須だ」というのは,global-standardなコンセンサスではない。日本は世界でも数少ない,医学生全員が解剖実習をする(できる)国だ。

もちろん,肉眼解剖を研究・教育する人間の端くれとして,それでいいとは思っていない。だが,世の中にどんなに解剖実習をしたくても,できる状況であってもなお「できない」人間がいることも事実だ。私は「だったら医師になるのはあきらめろ」とは,おそらく言わない。「その分何ができるか考えろ」と言うだろう。

かつて,「目が見えないもの,耳が聞こえないもの,口がきけないもの」には,「絶対に」医師免許が与えられない*3時代があった。大昔の話ではない。つい数年前までの話だ。日本では医師は医療の全てを行う権利がある。しかし,これは一人の医師が医療の全てを「行える」ことを意味しない。医療の全てに関する知識と技術がある医師は,人間のあらゆる営みにおいてそうであるように,この世にいない。

しかし,それでも医療は世の中に必要とされていて,だからこそ,資格があり職業がある。医師は皆,限りない医療の広がりの中で,自らが引き受けられるものを模索する。医師とはある意味で個人ではない。むしろネットワークの総和なのだと私は思う。
実際の所,医師となってなおかつホルマリンで固定されたご遺体を解剖する人間は,ごく希にしか存在しない。そのプロセスを「踏まない」ことと「踏めない」こととは,自ずと意味が異なるだろう。踏めない学生に対して,何ができるか,どこまでできるか,あるいはできないのかは,そのプロセスの必要性とは別に,現にそのカリキュラムを必修項目として課している以上は,説明責任がある*4と考える。

*1: 衆議院議員井上和雄君提出化学物質過敏症等に関する質問に対する答弁書

*2:解剖学実習におけるホルムアルデヒド曝露について」に詳しい。

*3:法律用語で「絶対的欠落事由」という。現在これらは「与えないこともある」相対的欠落事由になっている。全盲の医師が誕生したと報道されたのも,記憶に新しい。

*4:くどいようだが,あくまでも一般論を言っているのであって,両大学を批判するものでは一切ない。両大学が説明責任をどこまで果たしたのか,あるいは果たさなかったのかは,記事のどこからも読み取ることはできない。