分類というもの

看護は理系?文系?」を読んで。
高校生時代,何度か「進路適性試験」なるものを受けた。私は「数学セミナー」なんぞ定期購読しているような「数学オタク」であった*1が,一度たりとも理系と判断されたことはなく,もっぱら「6:4で文系」という評価であった。
今にして思うのだが,結局のところ文系だの理系などというのは,人が決めた「分類」に過ぎない。どんな人間にも,文系的なところもあれば理系的なところもある。にも関わらず未来ある十代の若者を文系・理系に分類するのは,単に進路上の便宜に過ぎない。しかし,人は何かを分類すると,それをまるで神様が決めたかのように思いこむ。そして,やがてそのどちらかに,自ら偏っていくのだ。
何も理系・文系だけの話ではない。男女は言うに及ばず血液型だって,それが生物学的に決定しているという一点を除いては,やっぱりただの分類である。「生物学的に」決定しているということは,それ以外は決定していない(かもしれない)ということである。日本では血液型と性格は関係があると一般に信じられており,実際相関が見られるという報告もあるらしい。しかしそれが見られる国は世界広しといえども日本だけだと言われている。私たちはB型人間なのではない。B型人間になるのだ!
病気についてもほとんど同じことが言える。例えば癌という疾患について考えてみよう。癌はもともと自分自身の細胞が遺伝子変化を起こしたものである。ヒトの遺伝子が全員違う以上,同じ肺癌患者であっても,細胞レベルでは絶対に同じではない。だから癌とはそれらの共通点をまとめて定義した,抽象的な概念である。医者は患者を癌と診断し,癌を腺癌とか扁平上皮癌などと分類する。だがそれとて誰かが作り出したものであることに変わりはない。
言うまでもなく,これは何も癌に限った話ではない。「病を診ずして病人を診よ」とよく言われるが,本当の意味で診ることができるのは,常に病人だけである。私たちは病人を診断して病を「付ける」。それは治療のための分類である。だから診断に基づいて治療するのは当然だ。しかし,診断は常に病を100%説明するものではない。精神・社会は言うに及ばず,純粋に生物学的に見ても,診断に基づく治療が100%最善であるとは言えないのである。


話が大きく脱線してしまった。高校生の皆さん,特に受験生の皆さん*2。もし,皆さんが医学生になりたいなら,あるいは看護学生になりたいなら,あるいは何であれ某かの職業系の学生になりたいなら,間違っても面接で「理系だから」とか「文系だから」とは口にしないことだ。世の中に医者に向いた人間はいるだろう。ナースに向いた人間もいるだろう。弁護士に向いた人間だっているだろう。だが,文系・理系は本来それを判別するために作られた概念ではない。それで判別しようとする人間がいるだけだ。だから,あなたがどれだけそれを強調しようが,面接官がその種の人間でない限りは,無駄であるか有害である*3
あなたは自身を何かに分類しようとする前に,あなた自身を説明すべきである。少なくとも数年後の自分が今よりそれらに向いた人間であるだろうことを説明すべきだ。それは自らを文系・理系に分けることより,遙かに難しく,辛いことに違いない。文系・理系は「どちらか」の選択でしかないが,人生の選択枝は無限にあるのだから。だが,あなたが本当にそれができたとき,あなたは心からの確信を持って,人生の選択が下せるだろう。そして人はあなたを心から支持するか,少なくともあなたにより向いていると思われる選択を教えてくれるに違いない。

*1:だからと言って数学が得意であったわけではない。大学数学なら高校生に理解できなくても平然としていられるわけで,だから「大学への数学」などは手にしたことがない。

*2:は,こんなページはあまり読まないだろうな。(´ヘ`;)ハァ

*3:その手の輩であったとしても,50:50の博打だ。