解剖と解体の間

ウサギ解剖ブログ問題、医学部学生6人を停学処分…宮崎大学

 宮崎大医学部(宮崎県清武町)の2年の男子学生6人が、死んだウサギを自宅で解剖し、写真をブログ(日記形式の簡易ホームページ)で公開した問題で、医学部は14日、教授会を開き、「本学の信用を失墜させ、医学科学生としての本分に反するもの」として、6人を停学処分にした。

君たちの誰かが,いつか読んで下さるものと信じてこれを記す。君はおそらく,自分たちの行いをもとより「正しい」こととは思っていなかっただろうし,それを非難する友人がいることも,恐らく予想していただろう。だが,それを大学が問題視し,このような処分を下すに至るとまでは考えていなかったのではないだろうか?そして,今も「自分たちの行いが,なぜ大学の信用に関わるのか?」「大学の信用を失墜させたとしても,それが自分たちが停学になる理由になるのか?」と,納得のいかない気持ちでいるかもしれない。
もしそうであったら,長文で申し訳ないけれど,この続きを読んでほしい。私はそのどちらも支持しているので,決して愉快ではないだろうけど。
さて,なぜ君たちの行いは大学の信用に関わるのか?それは思うに,医学部では解剖が教育され,君たちもその教育を受けているからだ。それを公開したことは是としないが,私に君がウサギを捌いたことを非難する資格はない。だが,君たちがそれを「ウサギの解剖」と呼んだことには,強い憤りを覚える。
解剖を学んだものは須く「解剖」という言葉に責任を持たねばならない。君たちの行為は絶対に解剖とは言えない。強いて言うなら解体というしかないだろう。君たちにその区別が付かないのなら,解剖を学んだ医学生としては「本分に反する」と言われても仕方ないし,大学が「解剖を教えられない大学」と評価されることを危惧するのも,また当然のことだ。
では,解剖と解体はどう違うのだろうか?まずはっきり言っておきたいのだが,解剖と解体を分けるのは倫理ではない。君は「海と毒薬 (新潮文庫)」という小説を知っているだろうか?日本人医師が行った生体解剖の話だ。それは決して倫理的に許容されないが,間違いなくそれは「解剖」だった。逆に,肉を食べることが君に必要なら,その命を屠り解体することを罪とはできまい。もう一度言う。解剖だからやっていいのでも,解体だからやってはいけないのでもない
そして,解剖と解体を分けるのは技術でもない。私もその一人だろうが,下手な解剖を行う者はいくらでもいる。逆に,屠った遺体から肉を取るにも,それなりの技術がある。もう一度言う。精緻な解剖は賞賛されるべきだが,精緻な解体は猟奇的な解体であって,断じて解剖ではない
以上を確認した上で,もう一度君に問う。解剖と解体の違いは何だろうか?記事によれば君たちは「冗談のつもりだった」というが,君が解剖実習をやったことがあるなら,それこそ「冗談ではない」。その一言は君が解剖実習を「やらなければならなかったからやった」と考えていることを言明している。君は貴い遺志で献体されたご遺体を解体してしまったことを,心から悔いて欲しい。
解剖と解体の違い,それは偏にその目的による。私たちは「なぜ」解剖するのか?その理由はただ一つ,解剖しなければ分からないこと,できないことがあるからだ。君が解剖実習で学んだことの大半は,教科書に書かれた既知の解剖学的事実かもしれない。だが,それだって数多の死と解剖あってのことだし,けれども「君には」解剖してみなければ本当の意味では理解することができないものだった。だから君がそれを学ぶにはどうしても,君自身の手で解剖してみるしかなかった。だから大学は君の代わりに「あなたが亡くなったら解剖させて下さい」とお願いしたのだし,その無茶なお願いを受け容れて下さった方がいたから,君は解剖の機会を手に入れられたのだ。
それを理解していないと知られて君は恐れられ,医学生としての資質を問われている。君が「冗談のつもり」だと言ったその言葉が,君たちのブログを一瞥もしていない私に,君たちの行為を「解体」と呼ばせるのだ。だが君は言うかもしれない。「でも解剖と医療は違う」と。しかし私も含めて,大勢はその主張を受け容れないだろう。なぜか?解剖と解体の違いと同じ状況が,医療の場にも存在するからだ。
以前,無理かつ不慣れな内視鏡手術で患者を死に至らしめた医者がいたことを,君も覚えているだろう。そこには「どうしても」内視鏡手術でなければならない理由が,どこにもなかった。だからそれを「手術」と呼ぶことはできない。「知るために」するのが解剖であり,「助うために」するのが手術だけれども,いずれにせよ「どうしても」身体にメスを入れなければならないだけの理由があって,はじめて手術であり,解剖なのだ。肉を取る為であれ人の興味を引く為であれ,それら以外の目的であれば全て(傷害でなければ)解体である。たとえそれが「どうしても」しなければならない解体であっても。


私に「あなたのやっていることは解剖であって解体でないとどうして言えるのですか?」と厳しい言葉を投げかけた方がいる。残念だけど,私は自分がやっていることを解体でないと言えない。日々動物や人間のご遺体に向かい,「今日こそはまともに解剖するぞ」と思うけれど,相変わらず見たかったはずの(時には見えているはずの!)神経や血管を切ってしまったり,重要な構造を見落としてばかりいる。切ってしまった神経も血管も,二度とつながることはない。そうしていつも私は落ち込む。「あぁ,また解体をやってしまった」と。
だけど,その度にいつも思う。「でも,次こそは」と。だから,君も復学の日にはこう考えて欲しい。「でも,次こそは」と。次こそは,君たちの手と眼と心を,「どうしてもしなければならないこと」のために使って欲しい。それが「どこかの誰かを助けるために」と言えるものであることを,心から願っている。