降り来るもの1:縦隔ハートブレーク

医学生の読者様から,リクエストをいただいた。

この間外科の講義で、「迷走神経は左が中縦隔、右が後縦隔を走行する」と聞きました。
(中略)
どうして左右だった神経が前後になるのか教えてください。解剖は自信がないので、できれば簡単にお願いします。

とのことである。
まずはっきりしておきたいのだが,上記の記述は間違っている。それも外科医にあるまじきひでぇ間違いと断罪してはばからぬ。医学生様は「簡単に」とご希望なので申し訳ないが,断言した以上は,まずその根拠をしっかり述べさせていただきたいと思う。長くなってしまうけど我慢してください。



さて,そもそも縦隔というのがなかなか理解しにくいものであるので,まずはそこから説明していきたい…のだが,そのためにまず,以前腹膜について書いたものを読んでみて欲しい。「ハラ関係ないじゃん」と言われそうだが,大いに関係あるので。その要点を一行でまとめると,

  • 腹膜腔=腹腔-消化管-間膜

という式が成り立つと,そこでは書いた。同じように胸部の解剖も理解したいワケだが,そこまで神様は優しくない。残念ながら

  • 胸膜腔=胸腔-食道-間膜

ではないのだ。それというのも胸部には腹部にはナイ「縦隔」なんてものがあるからで,この式のどこが間違っているのか,どう直せばよいのかというのが,次の問題*1である。
そこでまずは大ざっぱに,胸腔と腹腔の臓器を比べてみよう。腹腔には基本的に消化器系しか存在しない*2のに対し,胸腔では肺があったり心臓があったりと,何だか複雑である。どうやらそこに鍵がありそうだと誘導して目をつけて,肺と心臓の発生を考えてみる。
最初に肺…というか,気道について。以前咽頭と喉頭の違いについて書いたときにも少し述べたが,消化器系と呼吸器系を分けるのは人間様の都合に過ぎないので,気道も肺もそもそもは食道の一部*3である。ということはつまり,消化管の周りが腹膜腔であるように,肺の周りが胸膜腔であるということ,言い換えれば

  • 胸膜腔=胸腔-(食道+肺)-間膜

ということだ。だが,心臓はどこへ行ってしまったのだろう!?
心臓は大動脈につながっているので,心臓は壁側胸膜の外にある,というかなければおかしい。胸の前の方に心臓があることは誰でも知っているが,(下行)大動脈は背中にある。全ては膜の外の出来事なのに,どうしてそんなことができるのだろう?
おそらくこう考えるしかないだろう。そう,大動脈弓は大動脈だけの弓ではなく,壁側膜ごとUターンしているのだと!こうして私たちの胸腔は,胸膜以外に心膜という,もう1枚の膜を持っている*4ことになる。
さて,長々と書いてきたが,ここらで一旦まとめよう。その位置の変化に注目すると,結局胸部臓器は

  1. もともとその位置にあったもの
  2. もともとの位置から胸腔内に広がったもの
  3. よそから来たもの

の3つに分類できそうである。2.すなわち肺であるが,1.と3.が存在する場所,つまり「胸膜腔と胸膜腔の間」の部分を縦隔と呼ぶ*5。通常心臓とその外側を中縦隔として,それより前を前縦隔,それより後ろを後縦隔と分類しているが,心臓は胸に降りて来るのだから,1.は当然後縦隔に位置する*6ことになる。食道に分布する神経が走行する場所は,交感神経であれ迷走神経であれ,後縦隔しかあり得ないのである!
最後に例によって例のごとく,医師国家試験問題を引き合いに出しておく。

97G29
正しいのはどれか。

  1. 左肺は3葉,右肺は2葉である。
  2. 気管は心臓の前方にある。
  3. 食道は気管の前方にある。
  4. 右肺動脈は上行大動脈の後方にある。
  5. 横隔神経は心膜の内側にある。

医学生様から「迷走神経関係ないじゃん!」という憤慨の声が聞こえてきそうである*7が,解説はこちらを参考にして欲しい。正解(4.)を選ぶこと自体は決して難しくないと思うが,問題は間違い選択肢の方である。特に5.に自信を持って×を付けられる人はそう多くないと思われるが,もう大丈夫ですよね?心膜が心臓と運命を共にした心臓だけの膜であることを考えれば,心膜の内側にある神経は心臓に分布する神経しかあり得ないことが理解できるだろう。もちろん,横隔神経は横隔膜の神経で,心臓の神経ではない。

*1:どんどん話がそれていますが,ちゃんと着地…するハズです。

*2:脾臓なんてのもあるけど。

*3:「食道は漿膜に包まれない」という国試頻出問題があるが,「接しているものは包みようがない」ので,それを言うなら気管だって包まれてはいない。あえて特別なことと言えば,せいぜい食道は背中に張り付いていて間膜を持たない(前だけでなく後ろも包まれない)ということくらいだろうか。

*4:厳密に言うと,これは2つの意味で間違っている。大動脈弓(Uターン)は,心臓が頭の先から胸の中へ下降してできた「結果」の産物である。ということは心臓は「もともと」前にあったので,その時期には心臓も間膜を持っていた。だから心膜にも臓側膜と壁側膜,そして心膜腔が存在する。また,壁側心膜の外側には,もう1枚二次的に作られる膜がある。これを線維性心膜といい,本来の心膜を漿液性心膜と呼んで区別する。だから正確には,心臓は3枚の膜で包まれている。

*5:もう一度腹部と比較してみることで,その意味はより明白になるだろう。要は腹部における腹膜腔「以外の」部分が,胸部における縦隔(と肺)ということだ。

*6:「よそから来た」臓器,つまり前・中縦隔の臓器には,心臓の他に胸腺や横隔膜がある。

*7:迷走神経の前後の話も必ずします。まずは縦隔の理解からということで勘弁してください。m(__)m