解剖学は科学か?

「解剖学って科学なんですか?」と聞いてきた学生がいて,少なからず面食らってしまった。しかし,はっきりと口にしないまでも,疑いの目を持つ方は少なくないかもしれない。最近質量とも堕落気味なこのブログにはちょっとデカすぎるテーマではあるが,「科学研究費補助金」の申請も書いたことだし,あえて取り上げてみよう。
まず,そもそも「科学」とは何だろうか?歴史から考えてみよう。Wikipediaの「形而上学の語源」の項に

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、あわせて『自然学』と呼ばれる多数の著作をあらわした。初期の版では、アリストテレスの著作はちょうど『自然学』の後にもう一つの著作群が配置されるような仕方でまとめられた。この著作が哲学的探求の基礎的、根本的領域に関わるのだが、その時点では名を持たなかった。初期アリストテレス学派は、この著作を τ? μετ? τ? φυσικ?, "ta meta ta physika" (自然(についての)書の後(に続く書))と呼んだ。これが「形而上学」 (metaphysics) の語源(ギリシャ語では μεταφυσικ?)である。

それ故、語源学的には、形而上学アリストテレスによるこの(『形而上学(自然学後書)』Metaphysics と、集団的に、呼ばれた)著作の主題ということになる。技術的には、自然学についての著作の後に続くためにそう名づけられたのだが、この著作における実際上の主題的問題は、おそらく偶然一致して、自然的なものの基礎となる‐自然的なものを超えた‐ものの問題におけるものであり、従って二つの仕方でその語にぴったりである。

とあるが,随分長いこと,世界は神が造りたもうたものであった*1。だから,人間だろうが,自然だろうが,万物は神を理解できれば理解できると考えられていた。


この価値観に風穴があいた時代がルネッサンスであったことはよく知られている。ルネッサンスの精神とは,要するに
「人間のことは人間に聞け」
「自然のことは自然に聞け」
ということであった*2
「神が分からなければ,人間も自然も分かりっこない」
というのがそれまでの「常識」だったとすれば,
「神は見えないけど,人間や自然は見えるじゃん」
というのが,ルネッサンスの「発見」であったのである。こうして科学が始まった。科学とはだから,「物事をありのままに見ることによって,見えるものを明らかにしようとする試み」である。
「実験ができなければ科学ではない」という人がいる*3。だが,ケプラーが惑星の運動を数式で表したとき,彼は実験をしただろうか?科学において観察は実験と同じく尊い


そもそも実験とは何だろう?ガリレオ・ガリレイは,ピサの斜塔から木の玉と鉄の玉を落とした*4。そこに(今で言うところの)空気抵抗がある以上,これが羽と鉄の玉であったら,同時には落ちない。だからガリレイは大きさ・形・高さを同じ条件にした上で,質量だけを変えてみた。
モノが落ちるという単純な現象であってすらこうだ。どんな現象でも,Aという要因もBという要因もCという要因も関係がある。その全てが常に全く同じであるとは,ほとんど期待できない。結果的に現象はランダムに*5起こっているように見える*6。だから,私たちはAという要因以外をできるだけ同じ条件にして,Aと現象の関係を見ようとする。すなわち実験とは,
「複雑な現象を観察するための,特殊かつ単純な条件を設定した観察」
に他ならない。


解剖学は科学である。それは観察科学ではあるが,れっきとした科学である。そして,日常体験からかけ離れた実験科学が主体になっている現代においては,観察科学こそがもっとも「科学らしい科学」だというのが,私の矜恃である。

*1:少なくともヨーロッパでは。

*2:と私は理解している。

*3:科学者の中にも!

*4:ことになっている。

*5:「神」懸かりに!

*6:そもそもいくつの要因が関係あるかも,誰にも分からない。どんなによく分かっているように思える現象であっても,全ての要因が見つかっているという保証はどこにもない!