これから入学する君へ

結核は怖い病気だ。
今でも1年に3百万人もの人たちが世界中で亡くなっているし,
日本でも1年に3千人が亡くなっている。
昔はもっともっとたくさんの人たちが結核で亡くなって,
死の病と恐れられていたことを,おそらく君も知っているだろう。
その頃,結核で穴が空いた肺にピンポン球を入れるという手術があった。
凹んだ胸が元に戻るし呼吸も楽になるというので,患者さんは喜んだという。
それから数年後,今度はピンポン球を取る手術を受けなければならなくなったのだけど。


「昔のお医者さんは野蛮なことをしたんだな」と,君は思うかもしれない。
だからもう一つ例を挙げよう。


心不全は怖い病気だ。
心不全に苦しむ患者に,医者は何ができるだろう。
心臓が弱っているのだから,心臓を頑張らせればいい。
君もそう思わないだろうか。
そのためにジギタリスという薬が使われてきた。
だけど,君がこれから読む教科書には,
心不全ジギタリスを使ってはならない」
と書いてあるだろう。
確かにジギタリス心不全の患者さんを元気にするけれど,
それ以上にジギタリスの副作用は死につながりやすいのだ。


「昔のお医者さんはいい加減なことをしたんだな」と,君は思うかもしれない。
それが分かってから,まだ10年も経っていないのだけど。


だから,覚えておいて欲しい。
君だって時には患者さんに,よくないことをするのだと。


医者は大昔からいるけれど,医者が人を助けたことは意外に少ない。
ケガをして血を流す患者に,昔の医者は煮えたぎった油をかけた。
確かに血は止まったかもしれない。
でも,そのヤケドのために,どれほどの命が失われただろう。
そんなことをしない方が,どれだけの命が救われただろう。
それが行われなくなってから,まだ500年も経っていない。


その頃の医者はきっと,患者を救うより殺すことの方が多かったに違いない。
だけど,それよりずっと大昔から医者はいて,もっとたくさんの患者を殺めていた。
なのになぜ,医者はお医者さんでいられたのだろう?
多分それは,医者に患者が助けられたからではなく,
医者という存在そのものが,患者の求めに応えたからだろう。
誰かにすがってでも助かりたいという,患者の声に。


そして今,治療をした患者としなかった患者を比べる,多くの研究が行われている。
その結果,行われなくなった治療もたくさんある。


だから,覚えておいて欲しい。
君だって時には患者さんに,よくないことをするのだと。


君がお医者さんになったとき,
君の患者さんは,君は病気のことなら何でも知っていると思っているかもしれない。
知っていなければならないと言うかもしれない。
でもその頃君はもう,それは間違いだと気が付いているに違いない。
そして,君は言いたくなるだろう。
確かに自分の勉強も足りないかもしれないけれど,
それ以上に医学自体の知識が足りないのだと。


多分,今君が想像している以上に,
健康のことも病気のことも,僕たちは何も知らない。
確かに医学はどんどん進んでいるけれど,
まだまだ分かっていないことの方が,ずっとずっと多いのだ。


だから,覚えておいて欲しい。
君にできることよりできないことの方が,ずっとずっと多いのだと。


アホらしくてやってられなくて,勉強なんて止めたくなるかもしれない。
残念で情けなくて,医者なんて辞めたくなるかもしれない。
だから,もう一つ覚えておいて欲しい。
確かに,君にできることは少なくて,
時には患者さんによくないこともしてしまうけど,
それ以上に患者さんに,いいことだってできるのだと。


今からたった100年前には,
抗生物質インスリンもなかった。
生きている人の脳や心臓に触れることはおろか,見ることすらもできなかった。
それでも患者は救いを求めたし,
だから医者もできないなりに,いろんなことをやってみた。
そのほとんどは無益で時に有害で,患者を殺めさえしたけれど,
おかげでできることも,たくさんたくさん増えたのだ。
そして今では少しだけ,でも確実に,
医者は殺めることより助けることの方が多いのだ。
治療をした患者としなかった患者を比べても,
医者が失業しないですむくらいには。


昔も今も,医者はいた。
でも医者は,患者の求めに応えたから医者だったので,
本当は患者を傷つけていることの方が多かった。
でも君は違う。
君は時には患者を傷つけるけど,
それ以上に患者を助けられるから医者なのだ。
そう胸を張って言える時代に,君は生まれてこられたのだ。


だから最後にもう一つ,君に覚えておいて欲しい。
確かに分かっていないことの方がずっとずっと多いけど,だからこそ,
知りたいことが,まだまだたくさんあるのだと。
できることはまだまだ少ないけれど,だからこそ,
今できることよりたくさんの,これからできるようになることがあるのだと。


今日誰も知らないことは君も知らない。誰にもできないことは君にもできない。
今日倒れた患者さんは二度と戻ってこないけど,
君がその患者さんの何かを知れたなら,そうして何かができるようになったなら,
君の後輩の医者とそのまた未来の医者たちは少しだけ,でも確実に,
それよりもっと,何かができるに違いない。


References

  1. IDWR:感染症の話 結核
  2. 結核覚書
  3. 治療の歴史「ジキタリスを巡る最近の話題」
  4. 【コラム】西洋の解剖学(「高校生物:動物の器官と組織」より)
  5. 我々を支えるものは何か
  6. 読売新聞が見つめた島根50年 (4)1980年代 生体肝移植